LOGIN学校から家までは自動車でおよそ二十分。登下校を合わせても四十分だ。
私と瑞希くんは婚約者同士だが、かたや商會の次期社長。ともなれば、私たちが共有できる一日の時間はあまり多くない。そんなに忙しいのなら、登下校だってわざわざ送り迎えをしなくても良いのにと思うのだが、瑞希くんにとってこの四十分は大変貴重な時間らしい。
「今日はどうだった?」
「いつもと変わりありませんでしたよ」
「そうか。授業はついていけてるか?」
「ええ。最近は英語の授業が始まりましたの。とても楽しいですわ」
「それはいい。英語なら、俺も多少は教えてやれる」
「ありがとうございます。では、困った時にはいずれ」
この手の話題は苦手だ。早々に打ち切ろうとすると、
「……みぃ」
瑞希くんが私を呼ぶ声が一段低くなった。これから大切な話をするのだと雰囲気だけで悟らせる。
「本当に、職業婦人になるつもりか?」
彼からこの質問を受けるのは何度目だろう。いつからか数えるのもやめてしまった。
対して回答はいつも同じだ。何度聞かれても、その答えを変えるつもりもない。
「ええ。私はずっと看護婦になりたいと思っておりますから」
「だが、みぃは体が強いとは言えないだろう? 俺は心配なんだ。働くことはみぃが考えているほど簡単なことじゃないし、社会に出れば辛いこともたくさんある」
「もちろん存じておりますわ。お父さまや瑞希くんを見ておりますもの」
このやり取りも何度交わしただろう。うんざりしてしまいそうになるのを必死にこらえる。
「俺がたくさん働いて稼ぐ。不自由させるつもりもない。だから、みぃには家を守ってほしいんだ」
「瑞希くんのお気持ちはわかります。ですが……」
「いや、今すぐ答えを出す必要はない。卒業までまだ半年以上もある。ゆっくり考えてくれ。でも、無理はしないように」
瑞希くんは、最終的に私が折れるだろうと考えているらしい。学生のうちは自由にさせてやろうとも考えているかもしれない。
私は静かに笑みを浮かべて気遣いに礼を述べるに留めた。
二年前、看護婦になりたいのだと打ち明けてからずっと、この問題を保留し続けている。
私も、瑞希くんも。
彼の気遣いが私の中で罪悪の意識を育み、痛みを芽吹かせる。だが、これも瑞希くんへの贖罪だ。私がそれを忌避することはできない。
居心地の悪さだけは隠すことができず、私は俯いた。黙り込んだ私の手を、瑞希くんがそっと優しく撫でる。
「体の調子はどうだ?」
「平気ですわ」
「本当に?」
きゅっと小指を握られる。瑞希くんの手は熱く、私からすれば瑞希くんこそ熱があるのではないかと思えた。
自らの意志で彼の手を振りほどくことはできず、代わりに顔を上げる。瑞希くんを安心させるために笑みを添えて。
「変わったことがあればすぐにお知らせする。そういうお約束でしょう?」
「はは、そうだったな」
瑞希くんの手が指から離れ、髪に触れた。菜々ちゃんが結ってくれた三つ編みを愛でるような手つきだ。
「これは友人にやってもらったのか?」
「ええ。いつもお話している親友がやってくださったんです。今日は雨で湿気が多いでしょう?」
「湿気が多いと女学生は三つ編みを?」
「そういうわけではありませんけれど……、私は髪が広がりやすいですから」
「ああ、なるほど」
瑞希くんは合点が言ったというように口角を上げた。彼の指の動きが編まれた髪の柔らかさを堪能していることを告げる。どうやら楽しいらしい。
「みぃの髪は長いし、ふわふわしていてそのままでも俺は好きだけど。でも、うん。三つ編みも良いな。可愛い」
素直に褒められ、否が応でもどきりと胸が鳴った。瑞希くんが嫌な人ならどれほど良かっただろう。私には勿体ないほど、瑞希くんは聖人だ。
私が羞恥に狼狽えていると、運転手から「坊ちゃま、そろそろ」と声がかかった。どうやら家が近づいてきたらしい。
「まったく、短い逢瀬だな」
瑞希くんは心の底から惜しんでいるようだった。軽く口を尖らせ、子供のようにいじける。こんな姿を彼の会社の人が見たらきっと驚くだろう。丸井商會の次期社長は見目麗しいだけでなく、聡明で冷静沈着だと新聞記事に記載されていた。早熟な青年だと。
「なかなか時間が取れなくて悪いな」
瑞希くんは名残惜しそうに私の頭を再度撫でる。
「この後はまたお仕事ですか?」
「ああ」
「毎日、お忙しいのに送迎していただいて……。瑞希くんこそ体調を崩してしまわれそうで心配ですわ」
「良いんだ。みぃとは普段あまり長く一緒にはいられないし、俺がみぃと会いたいだけだから」
世の女性の大半があっという間に陥落してしまいそうな甘い台詞だと思う。たとえ親に決められた政略結婚の相手だろうと。普通ならきっと「私も」とか「嬉しい」とか、そう自然に返せるはずだ。
私の婚約者でさえなければ、瑞希くんはもっと幸せだった。
心の中で瑞希くんに誠心誠意の謝罪を述べる。ごめんなさいでも、申し訳ありませんでも足りないと理解していても、そうせずにはいられなかった。
「そんな風に言われては、恐縮してしまいますわ」
「……みぃは、相変わらず謙遜が好きだな。まあ、そんなところも好きだけど」
瑞希くんの淡紅色を混ぜたような瞳がほんの少しだけ弱々しげに見える。だが、それも一瞬で、次の瞬間には彼の視線は窓の外へ向けられた。
車が停まり、自宅の門が見える。
「ほら、着いたぞ」
瑞希くん自ら車の扉を開け、私のために傘を開いてくださった。雨の中、私の手を引く彼の手はやはり温かい。
「足元、気を付けて」
瑞希くんは私を支えるように傘の中へ引きこみ、私から雨をかばう。こんな風に傘を分け合えるのに、どうして私は瑞希くんを好きになることができないのだろう。
傘を指し、瑞希くんから離れる。
ほんの短い時間だったのに、彼の肩が少し濡れていた。私には、一滴の雨粒もついていない。
私がハンケチを取り出そうとすると、瑞希くんが首を振って拒否する。
「大丈夫だから、早く家に入って。風邪を引かないように」
これ以上彼を引き止めると、むしろ彼が仕事に遅刻してしまいそうだと私も手を下ろす。
「ありがとうございました」
私は頭を下げ、言われた通りに門をくぐる。ここで瑞希くんを見送ろうものなら、明日の送迎で「風邪を引いていないか」とくどいほどに問いただされてしまうことだろう。かつての経験を活かし、私は玄関先まで振り返らずに歩いた。瑞希くんが私の背を見ていることはわかっている。
たどり着いた玄関扉の前でようやく後方を見ると、瑞希くんが小さく手を挙げた。私も会釈を返して戸を開け、傘を立てかける。
玄関扉を閉じるとようやく、外から自動車が動き出したような音が聞こえた。
別れ際の瑞希くんの表情を思い出し、私は息を吐く。
彼の寂しげな笑み。その意味に気づかないふりをしている。
昨日、先生との外出で熱に浮かされているような気分になっていたが、どうやら気のせいではなかったらしい。 小雨の降る朝、私は熱を出した。 心臓移植を受けてから十年。退院して五年。これでも元気になったほうだが、虚弱な体質は変わらない。 無茶をしたつもりはなかったが、慣れない人ごみに疲れたのかもしれない。「これじゃ、本も読めないわね」 喉が引きつって声が掠れた。寝台の脇に置かれた袖机へ手を伸ばす。水差しから水をグラスに注いで飲むと少しばかり気が晴れた。とはいえ、倦怠感のせいか体は重く、この程度の動作ですら胸が痛むほど鼓動を速める。 窓を叩く雨音を聞く以外にできることもなく、私は目を閉じる。昨夜はあまりうまく眠れなかった。発熱で体力も奪われているらしい。呼吸が落ち着くと、簡単に睡魔が襲ってくる。 ――私は、夢を見た。 私は古い家の縁側に青年と腰かけている。庭には満開の白い梔子。私たちは、それを眺めるのが好きだった。 風に吹かれてふわふわと揺れる花弁を見て、青年が笑った気配がする。「見て。雪みたいだよ」「雪?」「白くて、綺麗で、冷たい氷の雨なんだって。いつか一緒に見てみたいね」「うん!」 風が止むと私は花を愛でることに飽きて、お茶請けのあんこ玉を頬張った。 夢中になっていると、隣に座る少年が「僕のぶんも食べていいよ」と私にお菓子を差し出してくれる。 彼の顔は逆光のせいでよく見えない。が、私はその顔をよく知っていると思う。私の頭を撫でる優しい手つきも。 梔子の香りと
百貨店の最上階にあるカフェーは落ち着いた雰囲気だった。蓄音機からピアノの曲が流れており、香ばしい豆の匂いと煙草の匂いが空気を満たしている。食器のぶつかる控えめな音と歓談の声がそこかしこから聞こえ、女学生の身で入るには少し勇気が必要だった。一人では尻込みしていたかもしれないと先生に言えば、先生はふっと目を細めた。 窓の外から街が見下ろせる席へ案内された私たちは、その眺めを存分に味わってから、食事を注文した。私が紅茶とシベリアで、先生は珈琲。 待っている間、話題を切り出したのは先生だった。「美羽さんはいつまで僕を先生と呼ぶのです?」「へ?」 想定外の質問に瞬きを繰り返すと、先生が喉をクツクツと鳴らすように笑う。私の知らない大人っぽい笑いかただった。「対等な関係をお望みだったのでは?」「あっ!」 私が「先生と生徒の立場は関係ない」と豪語したことを引き合いに出されたのだと気づくと、先生は賛同を求めるように片方だけ口端を持ち上げた。「……で、でも、先生は先生だわ」「では、僕もお嬢さまと?」「それは……」 名前で呼ばれたほうが嬉しいに決まっている。だが、それを伝えるのは告白しているようなものだ。 私は恋熱に浮かされた頭をなんとか働かせ、「先生こそ」と矛先を変えた。「先生こそ、対等に扱うと言っておきながら、まだ敬語だわ」「僕は対等な相手にも敬語ですよ。そのほうが楽なんです」「家族にも?」「ええ。美羽さんも、ご両
本屋は多くの人で賑わっていた。ラジオやテレビといった娯楽も少しずつ普及してきたけれど、まだまだ本は主流だ。特に最近は洋書が手に入るようになり、一層賑わっているように思える。 普段は穏やかな先生も、本屋の大きな陳列棚を前に珍しく喜色を目に浮かべている。どこか落ち着かない様子で店内の地図を確認した先生が店の奥を指した。「辞書はあちらのようですね」 立ち読みする人でごった返す雑誌の列を抜けていく。私も物珍しさに時折足を止めながら、先生の後を追う。先生は決して私を置いていかないよう、時々後ろを振り返っては私の姿を確かめてくれた。私が先生を見失うはずなどないし、そもそも先生はよく目立つので必要などないのだが。少なくとも、女性たちがコソコソと噂話をしているほうを辿れば、必ず先生がいる。 先生はたしか、今年で三十五になると言っていた。私が十八になる年なので、十七も離れていると常々先生が口にするのは間違いではないのだが、どうも先生は世間一般に見ても三十五には見えない。線の細さと淡く消えそうな雰囲気が少年のように見せているのか、単に先生の美貌が若々しく見せるのかはわからないが。 ――私なんかより、よっぽど先生のほうが誰かにさらわれそうだわ。 辞書が並べられた一角で私を待つ先生の隣に立つと、先生は苦笑していた。「こんなにも人が多いとは思いませんでしたね」 すでに疲労の色が見える。人の多いところは得意ではないのかもしれない。あるいは、普段は天界のような場所で過ごしているか。少し浮世離れした雰囲気があるし、隠居しているようにも思えるから、あながち間違いでもないかもしれない。先生から聞く外の話は、いつだって、天気の話か季節の話、気温や植物や医学や小説に関することが多く、家族や知人のことは少ない。先日登場した洋書の蒐集に余念がない知人の話も初めて聞いたくらいだ。「先生は、あまり外へ出ないの?
週末はすぐに訪れた。 先生があらかじめ話をしておいてくださったらしく、両親からはすんなりと外出許可が出た。 意外だったのは瑞希くんだ。てっきり反対されるかと思っていたが、彼は理由を聞くと渋々ながらもその場で了承してくれた。 家庭教師が男性であることは瑞希くんも知っているし、なんなら瑞希くんは先生のことを良くは思っていない。私を看護婦にしたくない瑞希くんにとって、医学を教える先生の存在は決して有益ではないからだ。 けれど、瑞希くんは熟考したのち「みぃのためだもんな」と言い聞かせるように承諾した。条件付きで。 当日は瑞希くんに送り迎えをさせること。それも、暗くなる前には必ず迎えに来るという。さらには、買った辞書を見せること。その日あったことを教えて欲しいとも言った。 そんなわけで、私は今、瑞希くんの車で集合場所である百貨店へ向かっている。梅雨の時期には珍しい晴天が車の窓の向こうに広がっている。 今日、先生と買い物をする百貨店は、私の父が経営し、瑞希くんの会社が卸しをしている。中心地にある瀟洒な建物で、私も両親に連れられて何度か行ったことがある。もしかしたら、そうした場所を先生が指定したことも、両親や瑞希くんが私を送り出してくれた理由の一つかもしれない。先生のこうした気遣いに救われている。「俺の仕事がなければ、喜んで付き合ったのに」 瑞希くんは拗ねた口調でこぼした。 街に近づくにつれ、人の往来や車の数が増え、外は賑わいを見せている。 休日でも仕事に邁進している瑞希くんは恨めしそうに外を歩く人々を見つめていた。「ただでさえお忙しい瑞希くんに、そんなお手間は取らせられませんわ」「別に手間じゃない。みぃのためなら
それからの授業内容はあまり覚えていない。 先生に教わって数学と理科の問題を解いていたはずだが、私はただ言われるがままに手を動かしていたようなものだった。 先生も、そんな私の体たらくぶりに気づいたのだろう。「お嬢さま」 普段、私が問題を解いている最中に声をかけることなどしない先生が、いつもよりもはっきりとした声で私を呼んだ。 ぼんやりと問題集を見つめていた私は戸惑いながらも手を止める。 先生を困らせてしまったのではないか。先生を怒らせてしまったのではないか。がっかりさせてしまった? それとも……。 先生のこととなると、途端に悲観的になってしまうのは悪い癖だ。「お嬢さま、調子が優れないようでしたら今日は中止にしましょう」 私が俯いたままでいると、先生の声音はいつもの穏やかなものになる。「お嬢さまは普段からよく勉強なさっておられますし、多少休んでも問題はありませんよ」「……平気よ」「では、他に気がかりでも? たとえば、丸井さまのこととか」 思わず先生を見つめてしまった。そんな風に踏み込んだ質問をされると思っていなかったし、そう思われているとすら想像していなかったから。 ――違う。先生のことよ。 口から本音が飛び出しそうになって、奥歯を噛みしめる。 先生は私の反応を是ととったのか、なんとも複雑な面持ちで長椅子から立ち上がった。 私の文机の隣へ立ったかと思うと、先生の手が私の背後へ回った。
「おや、今日は洋服をお召しになられているのですね。珍しい」 部屋に入るなり、先生は私の格好に眦を下げた。瑞希くんなら必ず可愛いと褒めてくれるだろうが、先生は決してその言葉を口にはしない。微笑ましげな表情を見るに、悪いとは思っていないのだろうが、所詮、子供や妹に向けるような類のものだろう。 今日はいつもより早く帰宅できたからと気合を入れてお洒落をした私とは対照的に、三日ぶりの先生は、相変わらず灰色の着物に黒い羽織という飾り気のない出で立ちだった。家庭教師に来ているだけなのだから当たり前だし、先生はそれでも様になっているから文句などないけれど。もしも願いが叶うなら、先生の洋装も見てみたい。瑞希くんのような背広もきっと似合うだろう。 先生が羽織を脱ぐと、雨の香りに混ざってほんのりと梔子の香りがした。先生はいつも、どこまでも、普段通りだ。「今日も体調は良さそうですね」 先生は私の顔色を見るなり、私の洋服姿を見た時よりも美しく笑った。それだけで、せっかく着飾ったのにと燻っていた思いなど簡単に霧散してしまう。 先生は、私の見た目よりも心身の健康を喜んでくださる人なのだ。それはなにより誠実にも思える。瑞希くんとは違う、恋愛感情のない純真な誠実さ。 先生は長椅子に体を預けることなく、鞄からいくつかの本を取り出した。今日の教材だろうか。見たことのない分厚い本が一冊混ざっている。 先日、月に一度の特別な課題を終えたばかり。今日から一か月間はまた通常の授業に戻る。それでも、飽きがこないようにと工夫を凝らしてくださっている先生の課題を見る瞬間は、いつもほんの少しの優越感と喜びに満ちていて好きだった。「あっ!」 先生が私の机に重ねていった資料や課題の数々に私は思わず声を上げる。 表紙に美しい船の絵が描かれた本だ。







